「心の光」との出合いと再会

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張蒼浪

出合いは一中入学前
再会は五十数年後


戦後五十数年来、時々私がくちずさむ文句がある。その文句はある文章の一節に現れた数行の語句である。それを私は詩歌を吟ずるように、またはせりふを述べるように、時にふれ、小さな声でうたったり、心の中で吟詠したりする。何故か現在古稀の歳になっても、あの若かりし時に憶えた次のこの文句が忘れられな い。

波立つ心にうつる万象は真のすがたをあらわさず
日暗むにあらず雲かかるなり
暗き魂を通して眺むる世界は暗黒なり


何という名句であろう。人間が「喜怒哀楽」の感情を通して眺むる世界即ち万象は、心の持ちかた次第によって、万象のすがたも違って映ってくるというものである。明るい魂で月や花を眺めれば月や花も微笑み、暗き魂を通して眺むる万象も暗黒であるという実によくうたった文句である。この言葉を私が年をとるにつれ、しみじみと心に感ずるのである。この語句を私が始めて見たのは、確か終戦前の一、二年前、私がまだ国民学校五年生か六年生の頃だと思う。あの文章は兄張蒼松(三十期、物故)がすでに台中一中の一、二年生で、その中学校かばんの中に納められてあった台中一中学生手帳(小冊子)の中に出ている文章の一くだりである。このことは、私は今でもはっきり憶えている。当時、羨ましい台中一中の学生にもうなっている兄のかばんの中のものは、何でも私には珍しく感じられてならない。そのかばんの中の本を取り出しては盗み読むのが、当時の私の楽しみであった。この手帳(小冊子)は五十年後に知る「心の光」である。この中に前掲の詩的文句が出てあり、それに感銘したのか、数回か読んでいるうちに、歌を憶えるように覚えてしまったのである。私も早く台中一中に入りたい気持とあこがれもあって、全文ではないが、すぐあのくだりの文句を憶えたのであろう。だが、この手帳に書名がついてあったかどうか、あれば書名は何かは憶えていない。

その後戦争が悪化し、激しい空襲下で私は受験勉強と退避に追われ、そして終戦の年昭和二十年三月に国民学校を卒業、台中一中を受験して合格、同年四月あこがれの台中一中に入学したのである。当時の物質不足の戦争下体制では、一中の制服制帽や教科書、教学補助品など揃うのは難しく、兄のかばんの中で見たあの台中一中学生手帳を学校から貰っていないことは確かである。そして台中一中に入学して約五個月間立って、八月十五日の日、日本が敗戦、終戦となり、日本時代の台中一中は終わり、中国時代の台中一中が「省立台中第一中学」という新校名で始まった。もう日本文で書かれた学生用の書籍を手に入れることはなかった。

終戦後、日本語書籍は敵性視され、排斥され、台湾人の誰もかも難しい始めて接する外来語の中国北京語の勉強に必死に取組み、私もあの小冊子の存在を、とっくに忘れてしまっている。ただあの中に書いてあったあの名句は忘れていない。

ところが昨年(二〇〇二年)年末頃、私に台中一中校友会文教基金会から一冊の小さい本が届けられた。手帳風のこの小冊子は「心の光」となっている。それを早速ぺらぺらとめくっている中に、「月歪むにあらず波騒ぐなり」(六五頁)という一句を見い出し、思わず「これだ、これだ」と叫んで感動してしまい、続いて「止水に映る月を見よ。波立つ心に映る万象は真の相をあらわさず」「日暗むにあらず雲かかるなり。雲去ればまた輝く。暗き魂を通して眺むる世界は暗黒な り。…云々」と続むに及んで、私が五十数年前に憶えたあの名言の原文がありありと出ているではないか。この喜びは譬えようがない。ただ私が今まで憶えて来た「月歪むにあらず雲かかるなり」はまちがいで「月歪むにあらず波騒ぐなり」が正しいことが分ったが、意味は同じだと自分で合点している。兄のかばんの中にあった小冊子の書名は「心の光」であったのだ。つまり私は「心の光」とついに再会できたのである。再会したこの「心の光」は復刊であるが、衣がえした旧友と同じであるには変わりはない。五十数年ぶりの再会は感無量であり、懐かしい人に逢ったように喜ばしい。文教基金会の許秋滄董事長を始め王紹宗等の諸先輩がこの復刊の企画推進に尽くされた努力に感謝の意を捧げたい。私は「心の光」を僅か五、六個月間過ごした日本時代の台中一中生の形見として、大切にしたいと思っている。

「心の光」の感想
校訓校歌校舎の事


「心の光」の発行は太平洋戦争突入の年昭和十六年であり、昭和二十年八月の終戦で絶版となっている筈であるから、まさに忠君愛国を尊ぶ戦時中にできた本である。従って皇室を尊び天皇に忠を尽くすような御製和歌、教訓教語などが含まれているが、その他は人格育成に益する修養乃至教養の詩歌、訓語、語録などが 入っているから、当時の時局に沿う作品としては、批判する人はいないだろう。

しかし戦後中国時代になって、戦前台湾人が受けた日本教育を中国政府側が奴隷化教育、毒素化教育と激しく批判するが、日本教育に比べ、中国政府側から与えられた教育とは「心の光」に匹敵するような本を見たことがなく、三民主義、国父遺教、反共大陸、殺朱抜毛、総統訓話など日本より軍国主義的な教育になってしまい、例えば、忠誠を誓う対象者は国か人か、蒋か毛か、目的や目標がはっきりせず戸惑うばかりであり、失言でもすると銃殺になりかねない恐ろしい教育になってしまい、それが所謂白色テロとなり五十年間も続いている。日本時代に天皇一人に忠を尽くせば万事納まり、何等疑う余地もなく、身の危険を感ずるようなこともないから、我々台湾人にとってどちらがよいかは他言を待たない。

「心の光」の編さん者は五十川先生であるが、私が一中に入学した昭和二十年の間、私はこの先生を、見たこともなく名前をきいたこともない。しかし、いち中学校の教諭として、教学のために「心の光」を編さんされた業績は大きい。少なくとも、戦後、私が六年間在学した台中一中の中国時代に中国人教師が中国語で「心の光」のような本を書いた先生はいない。思想犯で捕えられた中国人老師もあるぐらいだから、軽々しく口や筆をすべらすことは危険であることもその書けない原因の一であるかも知れない。

「心の光」は戦前の本であるから、難読難解の古文古典、詩歌、詔勅語などの古文体に歴史的かなづかい使用という古い本であり、漢詩も入っているので、もし戦後に続いて中国語の古文古典、四書五経などを勉強させられた私みたいな人が、この中日両国の漢字使いについて比較対象して勉強したい興味があれば、これまた面白いことだと思う。戦前あれほど意味がとれない教育勅語、軍人勅諭、青少年学徒ニ賜ハリタル勅語、宣戦布告詔書及び漢字の多い古文書などの文章の意味が一段と理解できたのは両国文学上において戦後の台湾人少数のものが得た学問上の喜びかも知れない。

このように日本の漢字と中国語の漢字乃至中国文を体験した多くの台湾人が、戦後に日本文又は中国文を書く時、書いた漢字や中国文が通ずるかどうか迷ってしまい、混同誤認を生ずることは免れないだろう。

「心の光」は日本時代の台中一中の日本教育を示すものであり、現在「心の光」を手にしてめくる時、自然と戦後の中国時代の台中一中中国教育と比較してみたくなるのは私一人だけではないと思う。

日本時代の台中一中校訓は「敬神尊皇、誠実篤行、感謝奉行、揖和親睦、勤労愛好」であるが、終戦の年に入学した私共三十二期生は、この校訓を学校から特に教えられなかったが、意味はよく理解できると思っている。この校訓は校別に作成された独特のものであり、特徴と特色があってそれで良いと私は思うのである。しかし戦後、台中一中の校訓は「禮義廉恥」に改められ、きけば台湾を含み中国領土内、大中小学を問わず、一律四文字の「禮義廉恥」で統一されているという。統一規定というがかえってありふれた個性喪失のものになってしまい平凡なものになっている。

「光は下りぬ、生命の光」に始まる台中一中校歌と「吾が南瀛を鎮めなる」に始まる応援歌は、日本時代台中一中に最後に入学した私共三十二期生でもよく歌われて来た懐かしい歌である。この二首の歌は上級生から教えられ、またこの歌を我々同期生はことあるごとに力強く歌って青春を謳歌したものだ。戦後の中国時代に、あらたに中国語版の校歌が作られたが、なじめない中国語歌詞とメロディーになっているため、在校中は勿論、今日に至るまで歌えないでいる。応援歌にいたっては、戦後の中国時代には、そんな歌というものはない。

台中一中校舎は日本時代の大正六年(民国六年)に建造された格式のある二階建ての建物で、その校舎の中で、私共三十二期生は戦前から戦後にかけて約六年間そこで学んだ。台中一中生なら自分の家も同然だと思うのは当然のことであり、台中一中生の共同財産でもあると思っている。その校舎を懐かしんで、私は約十五年前に、台北から台中の母校を卒業後始めて尋ねたところ、今まで頭にあった校舎の姿が消え失せてしまっているではないか。この失望感は大きい。昔の校舎の跡に見たことのない建物が所せましと建てられており、昔の校舎の面影はもうなくなっている。これは何たることだと、私は深く嘆いた次第である。ここで私の台中一中時代の思い出は、もはや心の中にしか存在しないことになったと思った。何故校舎を改築する時、学校当局は卒業生の感情を無視したのか残念でたまらず、いかりをも感ずるのである。


後記

「心の光」為日治時代台中一中的學生手冊,於台灣光復前四年(昭和十六年)出版,分發給在校學生使用。故二十四期至三十一期約凡八期的老校友,應皆使用過,乃屬一珍貴而值得懷念的刊物。頃由台北市台中一中校友會文教基金會予以復刊,因「心の光」以古日文編成,故本文著者認為仍以日文撰寫其復刊感想較為方便,本文因而以日文寫成,以供上述老校友與本文著者共同來懷念此書(「心の光」)。